前回のヘーゲルは、
自由を歴史の問題で考えたのに対し、
カントは、個人の問題として考えました。
カントの出発点は人間定義です。
万物は「自然法則」に従う。
しかし、人間のみ、「理性の法則」にも従う。
「自然法則」というのは、
「上から下へ落ちる」(万有引力)などもそうですが、
「食べたくなったら食べる」
「眠くなったら寝る」など、
自然的欲望も、自然法則の中に入れます。
カントは、人間以外は、
すべて、「自然法則」にしたがって生きている。
と言います。
そして、「食べたい特に食べ、眠りたいときに寝る」
それが「自由の楽園」のように、私たちは思うのですが、・・・・
しかし、それは、他人(自然・神?)が作った法則に従っているだけなので、
【他律】的と言い、自由とは言えないとカントは断言します。
本当の自由とは、
人間は、
腹減った・・・でも、今は会議中だから、食べてはいけない・・・とか
眠いー・・・・でも、今は授業中だから、寝てはいけない・・・など、
常に、「自然法則」に逆らうような「理性の法則」にも従うというわけです。
この「理性の法則」の中でも、
会議中食べたら、部長に怒られるし・・・
⇒怒られたくなければ食べるな!
授業中に寝たら、大学落ちるし・・・
⇒大学に受かりたければ寝るな
のように、「もし~ならば」「もし~でなければ」などの条件が付いてしまうと、
これも、他人の命令に従っているだけなので【他律】的となり、
やはり、自由とは言えないんですね。
カントの「自由」とは、
条件を付けない、絶対やるべき・・・という「理性の命令」に従うこと!
これが、カント的自由ということになります。
みんながやっているから・・・・
親や先生が言うから・・・・
友達がやるから・・・・
もうかるから・・・・
やりたいから(単なる欲望から)・・・・
など、すべてカントに言わせれば、自由とは言えず、
他律的な生き方をしていて、
動物となんら変わらない・・・というんですね。
勉強したいから、勉強する。
今は寝てはいけないから寝ない。
など、無条件で「~すべし」という理性の命令に従うこと、
これこそが、人間だけに与えられた特権であり、
「自由」ということになります。
自分の理性の命令は個人によって違います。
たとえば、ダイエット中であれば、
1日○○㌔カロリー以上は食べない・・・とか、
那覇マラソン出場者は、
1日○○Kメートルは走るぞ・・・・とか、
このような、個人的な自分への理性の命令を「格率」と呼びます。
人間のみ、「
格率」的存在なんですね。
「
人格」です。
カントは「人格主義者」と言われています。
それに対し、人間以外は、
役に立つか立たないか「価値」がつけられる存在ですので、
「価格」的存在と定義します。
つまり、自分への命令「格率」を持たない人間は、
単なる「価格」的存在になってしまいます。
「格率」を持ち、それに従うから、人間は尊厳があるんですね。
昔の「奴隷制社会」では、奴隷にされた人々の「格率」を無視して、
単なる「価格」的存在にしてしまいました。
カントは言います。
他人の「格率」を尊重せよ・・・と!
自分の「格率」はもちろんのこと、
他人の「格率」も、尊重しあう社会を
「目的の王国」と呼び、カントの理想とする社会です。
その「格率」の中で、個人的ではなく、
「普遍的(いつの時代も、どこであれ、誰にでも)に通用するもの」
それを、「道徳法則」と呼び、
「道徳法則」に従って行動せよ・・・!と
カントは、言います。
ところで、カントさん、「道徳法則」って何・・・・?
カントさん
「それを私が言えば、みんながそれに従うということは、
私が作った法則に、みなさんは従うことになり、
それは、【他律】的になっちゃいますよね。
やはり、「道徳法則」は各自で作らなきゃ、
意味がないでしょう・・・・」
ということで、みなさんが、
「普遍的に通用する道徳法則を作って、
それに従って、行動してください」
それが、「自由」というものです。
追記
カントの思想は、「人間の良心」を全面的に信頼したものです。
いわゆる、「性善説」(生まれながらに良い心を持っている)の立場です。
上の文章の、「個人」を「国家」と置き換えて理論展開したのが、
「永久平和論」
各国が、自分の行動を自分で決定できる「国家的格率」を認め合う社会を求め、
たとえば「関税を大国が決定する」という「植民地政策」などは、
他律的とし、批判しました。
このカントの理想が、「国際連盟」設立に影響したことは覚えておいても良いかもしれません。