キルケゴールと絶望

ソクラテス

2012年06月22日 09:47

実は高校倫理に登場する思想家で

「希望」をテーマにする人はいません。

前回、キリスト教的希望で描いたように、

絶望を前提に、

絶望を乗り越えた所にあるものを「希望」と呼ぶなら、

「希望」を哲学した人物は、

キルケゴールということになります。

キルケゴールの思想は、実存への3段階

「美的実存」・「倫理的実存」・「宗教的実存」

を通して、人間の本来的な生き方を手に入れる

という内容です。

実存とは、「現実に存在する」という意味で、

これまでの普遍的(いつでも・どこでも・だれにでも通用する)な価値観ではなく、

「今、ここに存在する自分」にとっての価値観を求める立場のことです。

「今、ここにいる私」はどう生きればいいのか

これが、実存主義のテーマです。

この実存的テーマに気付くきっかけを、

キルケゴールは「絶望」と呼び、その「絶望」を

「死に至る病」と言い換えます。

つまり「死」をもたらすほどの状況になって初めて、

人間は、自分はどう生きるべきだろう・・・と考え始めるのです。

そして、キルケゴールは死に直面した人間はまず、

「美的快楽追求の生活」にふけると言います。

これが「美的実存」の段階です。

しかしいずれこの状況にも「絶望」します。

その絶望を乗り越え、今度は他人のために生きようと努力します。

これが「倫理的実存」の段階です。

しかしそれでも人間の力では「戦争」を止めることもできません。

限界を感じます。そして絶望します。

その後、神との触れ合いによって最終的には、

「宗教的実存」の段階に入り、

以降、キリスト者として人間本来の生き方を手に入れることになります。

これがキルケゴールの「実存への3段階」です。

ここで、キルケゴールの言う「絶望」とはどのようなものでしょうか。

キルケゴールは「絶望」を二つの意味でとらえていたようです。

一つは、「自分の弱さを認めないこと」

もう一つは、「自分の弱さから逃げること」

「絶望」というと

自然災害・戦争・不況・リストラなど、

どうも周りの状況を問題にしそうですが、

キルケゴールは、徹底的に自分を見つめます。

その時、自分の弱さを認めず徹底的に強がって生きるという生き方があります。

頑張って・頑張って・24時間企業戦士として戦う日本人のようです。

しかしそれは、自分自身を疲れさせると同時に、

頑張らない人を「弱者」として、見下します。

反対に自分の弱さを認めそれから逃げるという生き方もあります。

頑張らない、社会と接点を持たない、など

結果的にひきこもった生き方を選択することになります。

しかも、頑張らない自分がいやでいやで仕方なく、

最終的には頑張らない自分自身を見下してしまいます。

それが、キルケゴールのいう「絶望」です。

戦争状態でもないにもかかわらず、3万人以上の自殺者を出している、

今の日本人に共通する感情かもしれません。

キルケゴール自身、この両者の中で苦しんだようです。

そのような絶望から逃れる方法は、

徹底的に自分と向き合うことだと、

キルケゴールは言います。

まずは、自分の弱さを認めること。

現代の心理カウンセリングの手法では、

自分の問題点を書いたり、言葉に出したりする方法があるようです。

キリスト教では、それが懺悔なのでしょう。

いずれにしても、自分の嫌な所、自分の問題点を

徹底的に見つめ、それを客観視することにより、

自分の弱さと向き合います。そして自分の弱さを認めます。

その上で、そのような弱い自分がいかに生きるべきかを

考え始めた時、

弱者同士のつながり(倫理的実存)に生きることを欲し、

さらに弱者を包み込む存在、神の下(宗教的実存)に生きる決意をするのです。


これも癌を例にとって話しますと、

癌と宣告された時、

まずそれから逃げようとします。

「このやぶ医者め・・・」

「これは何かの間違いだ・・・」など

しかし、逃げても逃げても、現実から逃れることはできません。

最終的には、受け入れなければならない時が来ます。

その時、これから限られた人生(癌じゃなくても限られた人生なのですが)

いかに生きるかを真剣に考えるようになります。

その時、他の癌患者や、それを支える人々のネットワークが

支えとなります。(倫理的実存)

そして、癌を克服した人の存在、

それは完治した人、完治はしないまでも、癌を受け入れ主体的に生きた人

などを、自分の闘病生活の目標として生きることになります。(宗教的実存)

このようにして癌の宣告という絶望的な状況を乗り越えていくのです。

もちろん、キルケゴールの場合、最終的には

十字架の死を乗り越えた、イエスとともに生きることにより、

自らの主体的な生き方を取り戻すのですが、

宗教心の乏しい日本人は、

絶望の淵から、主体的な生を取り戻すのは困難なことなのかもしれません。

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