2012年04月27日

宗教的労働観

さて、今回は

西洋的労働観と日本的労働観の違いを

宗教から見ていきたいと思います。

仏教学者「ひろさちや」さんによると、

西洋的労働観は

「労働懲罰説」が基本だそうです。

アダムとイブが禁断の木の実を食した時、

神はアダムに

「お前は額に汗してパンを得る」

と言って、労働を懲罰として課したのです。

したがって、西洋では労働は罰なのです。

ラテン語由来の「labor (労働)」は

ここからきているんですね。

誰でも罰は受けたくないもの、

しかし神が与えた罰なので、受けざるを得ない、

だから、仕方なく労働するんですね。

しかし、罰として働いているのなら、

できるだけ短い方が良い、

結果は出しながらもできるだけ早く仕事は切り上げたい

そこに、合理主義、成果主義の発想が出てきたのだそうです。

そして、労働は罰なのですから、アフターファイブは

できるだけ労働から離れようとする。

西洋的には、職場は刑務所なのです。

日本人のように、

就業時間が終わって以降も

同僚と仕事の話をしているのは、

刑務所の囚人同士が、

せっかく刑務所の外に出ても、

刑務所の中の待遇改善の話をしているようなもの、

と捉えられるのだそうです。

奇妙に見えるでしょうね。

西洋人の労働観を

労働懲罰説で見ていくと納得する部分が多いのでは・・・!

さて、それでは、日本はどうなんでしょう。

ひろさちやさんによると、

日本の場合は「労働神事説」

「事」という漢字は「仕える」という意味です。

「労働神事説」とは、

「労働は神に仕えることなんですよ」

という意味になります。

古代祝詞の中に

  神は稲を作るという大事な仕事を

  日本人にお任せになった

というのがあるそうです。

日本人にとって、労働とは、

神に仕えて、神のために働くことなんですね。

しかも神を祭る行事も同じ発想からきています。

神を祭るお祭りも「神事」なら、

稲を作る労働も「神事」なのです。

労働とお祭りの間に垣根がない。

つまり、遊びと労働が渾然一体となっているのが、

日本人の労働観なんですね。

実は日本人の労働観の中には、

合理主義も、成果主義も入り込む余地がほとんどありません。

神輿を担いだりする際、

神輿にぶら下がっている人もいたりするわけです。

沖縄ではあちらこちらで綱引きがあります。

1か月程前から、綱作りが始まり、

しかもそれは、酒を酌み交わしながら、

仕事をしているのか、遊んでいるのかわからないまま、

だらだらと作り続けます。

しかし、祭りの日までには必ず出来上がります。

そして祭りは最高潮を迎えます。

どこからが仕事で、どこからが遊びかわからない

そこが日本人の労働観。

就業時間中にも関わらず、同僚と仕事外の話に華を咲かせ、

就業後にも、酒を飲みながら仕事の話を熱心にする。

この24時間「神」のために、働きそして遊ぶという

仕事振りが、日本人の労働観なのです。

実はこの「労働神事説」の労働観に加えて、

西洋の「合理主義・成果主義」が導入されたのが、

日本の悲劇と考えていいと思います。

「合理主義」ですから「遊びは禁物」、

「成果主義」ですから、

何らかの形で結果は残さなければという強迫観念にさいなまれます。

しかし「労働神事説」ですから、24時間仕事は当たり前。

超過勤務は「サービス残業」という現代の労働観が

さも当たり前のようにまかり通っているんですね。

「合理主義」と「成果主義」を受け入れるのであれば、

「労働懲罰説」の立場に立たなければ、救われません。

逆に

「労働神事説」に立つのであれば、

「合理主義」「成果主義」はやめて、

「遊び心」を大切に仕事に励むことです。

そうでなければ、日本人労働者は精神を病んでしまうのではないでしょうか。


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Posted by ソクラテス at 22:10 │労働