東洋的実存(ここ)

ソクラテス

2012年01月26日 09:14

さて、今回は東洋的実存(ここ)ですね。

人間は、肉体と魂(精神・心)の両方を備えています。

肉体は、常に「ここ」を生きているのですが、

残念なことに、魂は「ここ」を生きている、

とは限りません。

「ここ」を生きるとは、

魂(心)を「ここ」に留めて生きることなのです。

目の前で彼女と話をしながら、

心は仕事のことを考える・・・

これでは、「ここ」を生きているとは言えません。

彼女と話をするときには、

彼女のことに「心」を留める。

これが、「ここ」を生きるということです。

大みそか、正月、など久しぶりに、親戚一同が集まります。

身体は「ここ」に集合していますが、

みんなの心はというと、

ゲーム・テレビ・携帯・インターネット・・・・

バラバラで、「ここ」に生きていないわけです。

その点、シーミーはというと、

とりあえず、お墓に行くわけですから、

テレビ・ゲームはありません。

最近の携帯は進化しすぎて問題ですが、

少なくとも、みんなの心は

ご先祖様の件に集中します。

みんなの心が「ここ」にあるわけです。

その意味で、私は「シーミー」が大好きです。

家族が一つ屋根の下で生活をしながらも、

実は心が「ここ」に留まらず、

家族の「心」がバラバラになっている、

これでは、「ここ」を生きていないことになります。

最近読んだ、新聞の記事で、

子供たちが「ファーストフード」が好きなのは、

「親とゆっくり話せるから」というような内容のがありました。

家庭での食事中の会話が、テレビなどの影響で

少なくなってきているのでしょうね。

家庭の食卓から、「家族の団らん」が消えてしまっているのでしょう。

むしろ、一緒に食事をすることも、

最近では、なくなってきているのかもしれません。

「家族の団らん」これが、まさに、

家族にとって、「ここ」を生きることに他なりません。

職場では「心」から、仕事に打ち込む。

家庭では「心」から家族と接する。

お茶を飲むときには、心からお茶を楽しむ。

身体が生きていいる「ここ」を、

心から楽しむ。

目の前の場面「ここ」に心をこめて取り組む、

これが、「ここ」を生きるということなのです。



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