東洋的実存(ここ)
さて、今回は東洋的実存(ここ)ですね。
人間は、肉体と魂(精神・心)の両方を備えています。
肉体は、常に「ここ」を生きているのですが、
残念なことに、魂は「ここ」を生きている、
とは限りません。
「ここ」を生きるとは、
魂(心)を「ここ」に留めて生きることなのです。
目の前で彼女と話をしながら、
心は仕事のことを考える・・・
これでは、「ここ」を生きているとは言えません。
彼女と話をするときには、
彼女のことに「心」を留める。
これが、「ここ」を生きるということです。
大みそか、正月、など久しぶりに、親戚一同が集まります。
身体は「ここ」に集合していますが、
みんなの心はというと、
ゲーム・テレビ・携帯・インターネット・・・・
バラバラで、「ここ」に生きていないわけです。
その点、シーミーはというと、
とりあえず、お墓に行くわけですから、
テレビ・ゲームはありません。
最近の携帯は進化しすぎて問題ですが、
少なくとも、みんなの心は
ご先祖様の件に集中します。
みんなの心が「ここ」にあるわけです。
その意味で、私は「シーミー」が大好きです。
家族が一つ屋根の下で生活をしながらも、
実は心が「ここ」に留まらず、
家族の「心」がバラバラになっている、
これでは、「ここ」を生きていないことになります。
最近読んだ、新聞の記事で、
子供たちが「ファーストフード」が好きなのは、
「親とゆっくり話せるから」というような内容のがありました。
家庭での食事中の会話が、テレビなどの影響で
少なくなってきているのでしょうね。
家庭の食卓から、「家族の団らん」が消えてしまっているのでしょう。
むしろ、一緒に食事をすることも、
最近では、なくなってきているのかもしれません。
「家族の団らん」これが、まさに、
家族にとって、「ここ」を生きることに他なりません。
職場では「心」から、仕事に打ち込む。
家庭では「心」から家族と接する。
お茶を飲むときには、心からお茶を楽しむ。
身体が生きていいる「ここ」を、
心から楽しむ。
目の前の場面「ここ」に心をこめて取り組む、
これが、「ここ」を生きるということなのです。
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