2012年02月09日
ベルグソン的時間
前回、カントはニュートンの影響を受けていた・・・
と書きましたが、
実存主義のハイデガーも、
過去から未来永劫、等間隔に流れてゆく、
ニュートン的時間の影響を受けています。
別に哲学者でも、科学者でもない私たちも、
ニュートン的時間に影響を受けて生きています。
原因は・・・「時計」です。
このニュートン的時間の考え方に、異論を唱えたのが、
ベルグソンです。
私は、ベルグソン的時間を「人間時間」
ニュートン的時間を「人工時間」と呼びますので、以降よろしく・・・!
ベルグソンは言います。
時計は時間ではない。
計測のための作られた(人工的な)時間である。
みなさんは、定規をを見て、これは空間だ・・・
とは思いませんよね。
自然科学的には、地球上、あらゆる場所に、
経線や、緯線が描かれています。
カーナビなどは、その経線・緯線を計算し、
位置情報を私たちに提供します。
でも、私たちは、日常生活の中で、
「今東経○○度の線を越えたところだ・・・」
なんて、考えたりしませんよね。
経線や緯線、海抜高度など、
空間的位置情報を提供する、物差しは、
科学的には必要かもしれませんが、
人間の生活上、必要はないですよね。
実は、「時間」も、
この経線や緯線などの空間的物差しと同様、
実験結果を正確にするため、
科学者が作った物差しでしかない・・・
というのが、ベルグソンの考え方です。
ベルグソンは「時間」という言葉を使わずに、
「純粋持続」と呼び、
われわれは、日常の経験を、
純粋に持続させたり(楽しい時は長く持たせたいですよね)、
断絶させたり(いやーな時は早く終わらせるなど)する中で、
生きている。
むしろ、時間が長かったり、短かったり・・・と、
「人工時間」のように、等間隔で流れるものではない・・・と
主張したんですね。
ところが、時計が作られ、
時計を持つことが文明と考えられるようになると、
時間というのは、常に等間隔で進み、
楽しい時間も、はいここまで、
つらい時間も、とりあえずここまで、・・・
というように、人間の感情を無視して、
等間隔の「人工時間」で、感情を切り刻んでいるわけです。
人工空間(緯線・経線)などを、計測する装置が、
私たちの生活の中に浸透しなかったため、
空間は私たちの生活を縛ることはなかったのですが、
残念ながら、
「人工時間」を計測する装置、「時計」が
私たちの生活の中に浸透していったため、
私たちは、「人間時間」を生きることなく、
「時間」に縛られることになったわけです。
ただ、最近のカーナビは怖い・・・!
私の義理の兄が配達業をやっているのですが、
カーナビがあるおかげで、
木陰で休みを取ることもできなくなった・・・と
言ってました。
会社が、車の位置を常に把握しているのだそうです。
車を止めて休んでいると、携帯に連絡が入るとのこと。
怖いですね。
そういえば、子供に持たせた携帯も、
子供の位置情報を親が常にチェックできる機能もあるようですね。
機械には不慣れなもんで、
今、どこまで空間情報を計測する「物差し」が
日常生活に浸透しているかは解りませんが、
時計が作る、「人工時間」に縛られるだけではなく、
カーナビシステムが作る、「人工空間」に縛られた生活が、
今後、私たちの生活の中に浸透していくのかと思うと、
少し怖いような気がします。
よくハッピーネタ(FM沖縄の番組)である、
「見知らぬ運転手さんが、パンクを直してくれました・・・」
なんていうことが、これからはなくなっていくのでしょうか。
思えば、少なくとも、私たち、子ども時代は、
「人間時間」の中、どこにでも「人間空間」(ガジュマルに作った家など)を作り、
人間的生活を謳歌していたように思います。
今の子供たちは、学校・塾・お稽古ごとなど・・・「人工時間」の中、
カーナビシステムが管理する「人工空間」の中、
さらに大人が作った「人工空間」(公園・サンエー子供広場・ラウンドワンなど)
で、人工的生活を押し付けられているのではないでしょうか。
もっとも、子供たちには「押し付けられている」という感覚はないのかな・・・?
ベルグソン的、「人間時間」を、
今一度考えてみる必要があるのではないでしょうか。
と書きましたが、
実存主義のハイデガーも、
過去から未来永劫、等間隔に流れてゆく、
ニュートン的時間の影響を受けています。
別に哲学者でも、科学者でもない私たちも、
ニュートン的時間に影響を受けて生きています。
原因は・・・「時計」です。
このニュートン的時間の考え方に、異論を唱えたのが、
ベルグソンです。
私は、ベルグソン的時間を「人間時間」
ニュートン的時間を「人工時間」と呼びますので、以降よろしく・・・!
ベルグソンは言います。
時計は時間ではない。
計測のための作られた(人工的な)時間である。
みなさんは、定規をを見て、これは空間だ・・・
とは思いませんよね。
自然科学的には、地球上、あらゆる場所に、
経線や、緯線が描かれています。
カーナビなどは、その経線・緯線を計算し、
位置情報を私たちに提供します。
でも、私たちは、日常生活の中で、
「今東経○○度の線を越えたところだ・・・」
なんて、考えたりしませんよね。
経線や緯線、海抜高度など、
空間的位置情報を提供する、物差しは、
科学的には必要かもしれませんが、
人間の生活上、必要はないですよね。
実は、「時間」も、
この経線や緯線などの空間的物差しと同様、
実験結果を正確にするため、
科学者が作った物差しでしかない・・・
というのが、ベルグソンの考え方です。
ベルグソンは「時間」という言葉を使わずに、
「純粋持続」と呼び、
われわれは、日常の経験を、
純粋に持続させたり(楽しい時は長く持たせたいですよね)、
断絶させたり(いやーな時は早く終わらせるなど)する中で、
生きている。
むしろ、時間が長かったり、短かったり・・・と、
「人工時間」のように、等間隔で流れるものではない・・・と
主張したんですね。
ところが、時計が作られ、
時計を持つことが文明と考えられるようになると、
時間というのは、常に等間隔で進み、
楽しい時間も、はいここまで、
つらい時間も、とりあえずここまで、・・・
というように、人間の感情を無視して、
等間隔の「人工時間」で、感情を切り刻んでいるわけです。
人工空間(緯線・経線)などを、計測する装置が、
私たちの生活の中に浸透しなかったため、
空間は私たちの生活を縛ることはなかったのですが、
残念ながら、
「人工時間」を計測する装置、「時計」が
私たちの生活の中に浸透していったため、
私たちは、「人間時間」を生きることなく、
「時間」に縛られることになったわけです。
ただ、最近のカーナビは怖い・・・!
私の義理の兄が配達業をやっているのですが、
カーナビがあるおかげで、
木陰で休みを取ることもできなくなった・・・と
言ってました。
会社が、車の位置を常に把握しているのだそうです。
車を止めて休んでいると、携帯に連絡が入るとのこと。
怖いですね。
そういえば、子供に持たせた携帯も、
子供の位置情報を親が常にチェックできる機能もあるようですね。
機械には不慣れなもんで、
今、どこまで空間情報を計測する「物差し」が
日常生活に浸透しているかは解りませんが、
時計が作る、「人工時間」に縛られるだけではなく、
カーナビシステムが作る、「人工空間」に縛られた生活が、
今後、私たちの生活の中に浸透していくのかと思うと、
少し怖いような気がします。
よくハッピーネタ(FM沖縄の番組)である、
「見知らぬ運転手さんが、パンクを直してくれました・・・」
なんていうことが、これからはなくなっていくのでしょうか。
思えば、少なくとも、私たち、子ども時代は、
「人間時間」の中、どこにでも「人間空間」(ガジュマルに作った家など)を作り、
人間的生活を謳歌していたように思います。
今の子供たちは、学校・塾・お稽古ごとなど・・・「人工時間」の中、
カーナビシステムが管理する「人工空間」の中、
さらに大人が作った「人工空間」(公園・サンエー子供広場・ラウンドワンなど)
で、人工的生活を押し付けられているのではないでしょうか。
もっとも、子供たちには「押し付けられている」という感覚はないのかな・・・?
ベルグソン的、「人間時間」を、
今一度考えてみる必要があるのではないでしょうか。
Posted by ソクラテス at 11:09
│時間