2012年02月21日
カントの自由論
前回のヘーゲルは、
自由を歴史の問題で考えたのに対し、
カントは、個人の問題として考えました。
カントの出発点は人間定義です。
万物は「自然法則」に従う。
しかし、人間のみ、「理性の法則」にも従う。
「自然法則」というのは、
「上から下へ落ちる」(万有引力)などもそうですが、
「食べたくなったら食べる」
「眠くなったら寝る」など、
自然的欲望も、自然法則の中に入れます。
カントは、人間以外は、
すべて、「自然法則」にしたがって生きている。
と言います。
そして、「食べたい特に食べ、眠りたいときに寝る」
それが「自由の楽園」のように、私たちは思うのですが、・・・・
しかし、それは、他人(自然・神?)が作った法則に従っているだけなので、
【他律】的と言い、自由とは言えないとカントは断言します。
本当の自由とは、
人間は、
腹減った・・・でも、今は会議中だから、食べてはいけない・・・とか
眠いー・・・・でも、今は授業中だから、寝てはいけない・・・など、
常に、「自然法則」に逆らうような「理性の法則」にも従うというわけです。
この「理性の法則」の中でも、
会議中食べたら、部長に怒られるし・・・
⇒怒られたくなければ食べるな!
授業中に寝たら、大学落ちるし・・・
⇒大学に受かりたければ寝るな
のように、「もし~ならば」「もし~でなければ」などの条件が付いてしまうと、
これも、他人の命令に従っているだけなので【他律】的となり、
やはり、自由とは言えないんですね。
カントの「自由」とは、
条件を付けない、絶対やるべき・・・という「理性の命令」に従うこと!
これが、カント的自由ということになります。
みんながやっているから・・・・
親や先生が言うから・・・・
友達がやるから・・・・
もうかるから・・・・
やりたいから(単なる欲望から)・・・・
など、すべてカントに言わせれば、自由とは言えず、
他律的な生き方をしていて、
動物となんら変わらない・・・というんですね。
勉強したいから、勉強する。
今は寝てはいけないから寝ない。
など、無条件で「~すべし」という理性の命令に従うこと、
これこそが、人間だけに与えられた特権であり、
「自由」ということになります。
自分の理性の命令は個人によって違います。
たとえば、ダイエット中であれば、
1日○○㌔カロリー以上は食べない・・・とか、
那覇マラソン出場者は、
1日○○Kメートルは走るぞ・・・・とか、
このような、個人的な自分への理性の命令を「格率」と呼びます。
人間のみ、「格率」的存在なんですね。
「人格」です。
カントは「人格主義者」と言われています。
それに対し、人間以外は、
役に立つか立たないか「価値」がつけられる存在ですので、
「価格」的存在と定義します。
つまり、自分への命令「格率」を持たない人間は、
単なる「価格」的存在になってしまいます。
「格率」を持ち、それに従うから、人間は尊厳があるんですね。
昔の「奴隷制社会」では、奴隷にされた人々の「格率」を無視して、
単なる「価格」的存在にしてしまいました。
カントは言います。
他人の「格率」を尊重せよ・・・と!
自分の「格率」はもちろんのこと、
他人の「格率」も、尊重しあう社会を
「目的の王国」と呼び、カントの理想とする社会です。
その「格率」の中で、個人的ではなく、
「普遍的(いつの時代も、どこであれ、誰にでも)に通用するもの」
それを、「道徳法則」と呼び、
「道徳法則」に従って行動せよ・・・!と
カントは、言います。
ところで、カントさん、「道徳法則」って何・・・・?
カントさん
「それを私が言えば、みんながそれに従うということは、
私が作った法則に、みなさんは従うことになり、
それは、【他律】的になっちゃいますよね。
やはり、「道徳法則」は各自で作らなきゃ、
意味がないでしょう・・・・」
ということで、みなさんが、
「普遍的に通用する道徳法則を作って、
それに従って、行動してください」
それが、「自由」というものです。
追記
カントの思想は、「人間の良心」を全面的に信頼したものです。
いわゆる、「性善説」(生まれながらに良い心を持っている)の立場です。
上の文章の、「個人」を「国家」と置き換えて理論展開したのが、
「永久平和論」
各国が、自分の行動を自分で決定できる「国家的格率」を認め合う社会を求め、
たとえば「関税を大国が決定する」という「植民地政策」などは、
他律的とし、批判しました。
このカントの理想が、「国際連盟」設立に影響したことは覚えておいても良いかもしれません。
自由を歴史の問題で考えたのに対し、
カントは、個人の問題として考えました。
カントの出発点は人間定義です。
万物は「自然法則」に従う。
しかし、人間のみ、「理性の法則」にも従う。
「自然法則」というのは、
「上から下へ落ちる」(万有引力)などもそうですが、
「食べたくなったら食べる」
「眠くなったら寝る」など、
自然的欲望も、自然法則の中に入れます。
カントは、人間以外は、
すべて、「自然法則」にしたがって生きている。
と言います。
そして、「食べたい特に食べ、眠りたいときに寝る」
それが「自由の楽園」のように、私たちは思うのですが、・・・・
しかし、それは、他人(自然・神?)が作った法則に従っているだけなので、
【他律】的と言い、自由とは言えないとカントは断言します。
本当の自由とは、
人間は、
腹減った・・・でも、今は会議中だから、食べてはいけない・・・とか
眠いー・・・・でも、今は授業中だから、寝てはいけない・・・など、
常に、「自然法則」に逆らうような「理性の法則」にも従うというわけです。
この「理性の法則」の中でも、
会議中食べたら、部長に怒られるし・・・
⇒怒られたくなければ食べるな!
授業中に寝たら、大学落ちるし・・・
⇒大学に受かりたければ寝るな
のように、「もし~ならば」「もし~でなければ」などの条件が付いてしまうと、
これも、他人の命令に従っているだけなので【他律】的となり、
やはり、自由とは言えないんですね。
カントの「自由」とは、
条件を付けない、絶対やるべき・・・という「理性の命令」に従うこと!
これが、カント的自由ということになります。
みんながやっているから・・・・
親や先生が言うから・・・・
友達がやるから・・・・
もうかるから・・・・
やりたいから(単なる欲望から)・・・・
など、すべてカントに言わせれば、自由とは言えず、
他律的な生き方をしていて、
動物となんら変わらない・・・というんですね。
勉強したいから、勉強する。
今は寝てはいけないから寝ない。
など、無条件で「~すべし」という理性の命令に従うこと、
これこそが、人間だけに与えられた特権であり、
「自由」ということになります。
自分の理性の命令は個人によって違います。
たとえば、ダイエット中であれば、
1日○○㌔カロリー以上は食べない・・・とか、
那覇マラソン出場者は、
1日○○Kメートルは走るぞ・・・・とか、
このような、個人的な自分への理性の命令を「格率」と呼びます。
人間のみ、「格率」的存在なんですね。
「人格」です。
カントは「人格主義者」と言われています。
それに対し、人間以外は、
役に立つか立たないか「価値」がつけられる存在ですので、
「価格」的存在と定義します。
つまり、自分への命令「格率」を持たない人間は、
単なる「価格」的存在になってしまいます。
「格率」を持ち、それに従うから、人間は尊厳があるんですね。
昔の「奴隷制社会」では、奴隷にされた人々の「格率」を無視して、
単なる「価格」的存在にしてしまいました。
カントは言います。
他人の「格率」を尊重せよ・・・と!
自分の「格率」はもちろんのこと、
他人の「格率」も、尊重しあう社会を
「目的の王国」と呼び、カントの理想とする社会です。
その「格率」の中で、個人的ではなく、
「普遍的(いつの時代も、どこであれ、誰にでも)に通用するもの」
それを、「道徳法則」と呼び、
「道徳法則」に従って行動せよ・・・!と
カントは、言います。
ところで、カントさん、「道徳法則」って何・・・・?
カントさん
「それを私が言えば、みんながそれに従うということは、
私が作った法則に、みなさんは従うことになり、
それは、【他律】的になっちゃいますよね。
やはり、「道徳法則」は各自で作らなきゃ、
意味がないでしょう・・・・」
ということで、みなさんが、
「普遍的に通用する道徳法則を作って、
それに従って、行動してください」
それが、「自由」というものです。
追記
カントの思想は、「人間の良心」を全面的に信頼したものです。
いわゆる、「性善説」(生まれながらに良い心を持っている)の立場です。
上の文章の、「個人」を「国家」と置き換えて理論展開したのが、
「永久平和論」
各国が、自分の行動を自分で決定できる「国家的格率」を認め合う社会を求め、
たとえば「関税を大国が決定する」という「植民地政策」などは、
他律的とし、批判しました。
このカントの理想が、「国際連盟」設立に影響したことは覚えておいても良いかもしれません。
Posted by ソクラテス at 10:00
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