2012年12月11日
より良い旅を
さて、前回のテーマ「執着」からの流れで、
実は「執着」を手放す・・・という意味を込めて
今回のテーマ「旅」を設定しました。
一遍上人のとどまっていては穢れる・・・という考えは、
そこまで痛烈ではないにしても、
私たちの日常生活に当てはまるのではないでしょうか。
さまざまな人間関係のしがらみ、
仕事上のトラブル、
自分の考えと周りの考えとの違いなど、
私たちの日常生活では、
穢れとは言わないまでも、
埃だらけになっているかもしれません。
そこで、「たび」という
今の環境を変え、自分を客観的に見つめるという行動に
駆り立てられるのでしょう。
自分が多数派の側にいると気づいたら、もう意見を変えてもいいころだ
マークトウェイン
西洋の哲学者たちは、自分たちの学問に行き詰った時、
自分の思想を立て直す時、
西洋以外と言う社会から学びました。
先ほど述べた、デカルトや、レヴィーストロースがそうです。
ニーチェは時間を旅して、古代ギリシャ時代から
現代を見つめ直し、キリスト以前の社会を理想として
「神は死んだ」と発言しました。
私たちが常識(多数派)に翻弄され始めた時、
意見を変えるための「たび」が始まるのかもしれませんね。
しかし、「たび」をしたから人生が変わるというものでもないようです。
旅は利口な者をいっそう利口にし、愚かな者をいっそう愚かにする
イギリスの諺
外国とはあなたが快適に過ごせるように作られているのではなく、現地の人々が快適に過ごせるように作られている。
クリフト ファーディマン(アメリカの作家)
イギリスの諺にあるように、
「たび」によって、心豊かになる利口な人もいれば、
「たび」によって、心貧しくなる愚か者も多いと思います。
違いはなんでしょう。
一つにはファーディマンの指摘がヒントかも知れません。
快適な旅を求めれば求めるほど、
心貧しくなるような「たび」をしているかもしれませんね。
グルメを巡る旅、温泉旅行など、
特に情報が氾濫している現在、
たとえば、温泉旅行に行きたい・・・と思った時、
露天ぶろは○○が良いね、
○○の風呂は美容に良いらしい、
どうせ行くなら、○○のおいしい所・・・
等と計画をしたら、
移動に時間を割かれ、現地滞在はほんの数時間、
「たび」のだいご味を味わわずに、
次から次へとスケジュールをこなすだけの「たび」
これでは、心豊かにはなりそうにありませんよね。
また、肉体は「たび」をしているのに、
精神は家にとどまっている「たび」も、
心豊かになる「たび」とは言えないような気がします。
「たび」先で、露天風呂につかりながら、
今月の家計のことを考えたり、
仕事のことを考えたり、
喧嘩した友人のことを思い出して、イライラしたり・・・など、
露天風呂が台無しになってしまいますよね。
実は、旅行を計画し、パンフレットをながめ、
「たび」先のことをあれこれと空想しているときが
最も「たび」の醍醐味を味わっている時であり、
出発すると、「たび」はすでに終わっている・・・
ということもあるようです。
出発前の空想では、
自分の「たび」を邪魔するものは一切ありません。
そして、「たび」そのものに集中しているのですから。
生業に貴賎はないが、生き方には貴賎がある
勝海舟
この言葉を借りれば、
「たび」に貴賎はないが、「たび」の仕方に貴賎がある。
とでもなるのでしょうか。
「たび」が本当に充実したものになるためには、
「たび」の目的から、見直さなければならないかもしれませんね。
あちこち旅をしてまわっても、自分から逃げることはできない。
ヘミングウェイ
日常生活から離れ、自分探しを目的にしても、
結局は、自分が変わらない限り、自分から逃げることができません。
そうです、
自分が変わらない限り、日常の埃は落ちないのでしょう。
旅行は寛容を教える
ディズレリー(イギリスの政治家)
旅は人間を謙譲にします。世の中で人間が占める立場がいかにささやかなものであるかを、つくづく悟らされるからです
フローベル(フランスの作家)
本当の旅の発見は新しい風景を見ることではなく、新しい目を持つことです
プルースト(フランスの作家)
旅をすることは、他国に対する間違った認識に気づくことである。
オルダス ハクスリー(イギリスの作家)
「たび」は自分を変えるきっかけをあたえてくれます。
でも、そのためには、
全精神を今、目の前にあるものに集中することです。
「たび」先での生活を自分の基準で測るのではなく、
「たび」先での生活基準に自分を合わせるのです。
インドの旅行は人間を2つに分けます。
インド病に陥る人と、インド嫌いになる人
おそらく、
インドでも自分の基準で物事を見、判断する人は
インド嫌いになるのでしょう。それほど価値観が違うのです。
でも、インドの基準に自分を合わせる人は、
恐らくインド病になるのだと思います。
同じ日本の中でも、
沖縄は、インドと同じかも知れません。
沖縄病になる人と、沖縄嫌いになる人
自分を変えるきっかけが「たび」には確実にあります。
でも変えるのが目的なら、今の生活と180度違う「たび」を計画した方が
自分を変えるきっかけに最適かも知れません。
時間のスケジュールを立てず、
現地で考え、現地を味わう、
そこにあるものを正しく観察すし
「たび」のすべてを受け入れる
それが、「たび」から得られる再大の恩恵だと私は思います。
人生にはたった二つの生き方があるだけだ。一つは奇跡などないかのような生き方、もう一つは、まるですべてが奇跡で あるような生き方だ
アインシュタイン
「たび」先での経験すべてが、奇跡であるような「たび」
まずい食堂に入っても、なぜこんな食堂が未だつぶれずにいるのか
を考察するだけでも、「ビジネスチャンス」かも知れません。
船が難破し、ある島に辿り着いた靴メーカーの2人のサラリーマン。
現地の人々が裸足なので、一人が
これでは靴が売れないとがっかりした一方、
もう一人の人は、これはビジネスチャンスと、
靴の売り込みに専念・・・
同じ事象を、どう捉えるかで、事態は大きく変わります。
同じ「たび」でも、そこから、
奇跡のように多くのものを吸収するか、
それとも奇跡などないかのように、「たび」を漫然と実行するか、
結局その人によるのかも知れませんね。
前にもあげました、パスカルのことば
人間の不幸の唯一の原因は、自分の部屋で静かに過ごすすべを知らないところにある。
日常生活の中に、奇跡を発見する力が、
「たび」先での奇跡を発見する力につながるのかも。
日常生活で「ぼやきっぱなし」の人は、
たとえ理想的な「たび」に出会っても、
きっと「ぼやいている」のかもしれませんね。
世界は一冊の本にして、旅せざる人々は本を1ページしか読まざるなり
アウグスティヌス(キリスト教父哲学者)
しかし、「ぼやいていても」、
やはり「たび」はすべきものだと思います。
効果はすぐには表れないかも知れませんが、
心の中に「種」として、
何らかの形でくすぶっていると思います。
生涯でその種が芽を出すか出さないかは、
それ以降の出会いなど
ある意味、宿命的なものなのでしょう。
「たび」は何も、お金をかけて出かける必要はありません。
書物を通して、時間を超えた「たび」もあると思います。
過去の偉人たちの言葉に耳を傾け、
自分の心の中に、
さまざまな「種」をまいておく。
どの「種」が将来、芽が出て大輪の花を咲かせるかはわかりません。
しかし、まいた「種」の種類の多さが、
大輪の花を咲かせる可能性を広げるのは考えなくてもわかること、
子どもたちの可能性を広げるためにも、読書を勧めたいですね。
お金を使った「たび」も良いですが、
お金を使わなくても「たび」はできるもの、
大晦日の大掃除のように、一気にきれいに片づける「たび」も良し、
日頃から埃をためないようこまめに片づける「読書」も良し、
時間と空間を超え、
「たび」に出ましょう。
人間の幅を広げるものは三つある。人と会うこと、本を読むこと。旅をすることだ。
午堂登紀雄(不動産投資コンサルタント)
門CAFEは、人に会うこと、本を読むことを実践しています。
いずれ、門CAFEツアーでもやりますか。
人間の幅を広げるために・・・(笑)
実は「執着」を手放す・・・という意味を込めて
今回のテーマ「旅」を設定しました。
一遍上人のとどまっていては穢れる・・・という考えは、
そこまで痛烈ではないにしても、
私たちの日常生活に当てはまるのではないでしょうか。
さまざまな人間関係のしがらみ、
仕事上のトラブル、
自分の考えと周りの考えとの違いなど、
私たちの日常生活では、
穢れとは言わないまでも、
埃だらけになっているかもしれません。
そこで、「たび」という
今の環境を変え、自分を客観的に見つめるという行動に
駆り立てられるのでしょう。
自分が多数派の側にいると気づいたら、もう意見を変えてもいいころだ
マークトウェイン
西洋の哲学者たちは、自分たちの学問に行き詰った時、
自分の思想を立て直す時、
西洋以外と言う社会から学びました。
先ほど述べた、デカルトや、レヴィーストロースがそうです。
ニーチェは時間を旅して、古代ギリシャ時代から
現代を見つめ直し、キリスト以前の社会を理想として
「神は死んだ」と発言しました。
私たちが常識(多数派)に翻弄され始めた時、
意見を変えるための「たび」が始まるのかもしれませんね。
しかし、「たび」をしたから人生が変わるというものでもないようです。
旅は利口な者をいっそう利口にし、愚かな者をいっそう愚かにする
イギリスの諺
外国とはあなたが快適に過ごせるように作られているのではなく、現地の人々が快適に過ごせるように作られている。
クリフト ファーディマン(アメリカの作家)
イギリスの諺にあるように、
「たび」によって、心豊かになる利口な人もいれば、
「たび」によって、心貧しくなる愚か者も多いと思います。
違いはなんでしょう。
一つにはファーディマンの指摘がヒントかも知れません。
快適な旅を求めれば求めるほど、
心貧しくなるような「たび」をしているかもしれませんね。
グルメを巡る旅、温泉旅行など、
特に情報が氾濫している現在、
たとえば、温泉旅行に行きたい・・・と思った時、
露天ぶろは○○が良いね、
○○の風呂は美容に良いらしい、
どうせ行くなら、○○のおいしい所・・・
等と計画をしたら、
移動に時間を割かれ、現地滞在はほんの数時間、
「たび」のだいご味を味わわずに、
次から次へとスケジュールをこなすだけの「たび」
これでは、心豊かにはなりそうにありませんよね。
また、肉体は「たび」をしているのに、
精神は家にとどまっている「たび」も、
心豊かになる「たび」とは言えないような気がします。
「たび」先で、露天風呂につかりながら、
今月の家計のことを考えたり、
仕事のことを考えたり、
喧嘩した友人のことを思い出して、イライラしたり・・・など、
露天風呂が台無しになってしまいますよね。
実は、旅行を計画し、パンフレットをながめ、
「たび」先のことをあれこれと空想しているときが
最も「たび」の醍醐味を味わっている時であり、
出発すると、「たび」はすでに終わっている・・・
ということもあるようです。
出発前の空想では、
自分の「たび」を邪魔するものは一切ありません。
そして、「たび」そのものに集中しているのですから。
生業に貴賎はないが、生き方には貴賎がある
勝海舟
この言葉を借りれば、
「たび」に貴賎はないが、「たび」の仕方に貴賎がある。
とでもなるのでしょうか。
「たび」が本当に充実したものになるためには、
「たび」の目的から、見直さなければならないかもしれませんね。
あちこち旅をしてまわっても、自分から逃げることはできない。
ヘミングウェイ
日常生活から離れ、自分探しを目的にしても、
結局は、自分が変わらない限り、自分から逃げることができません。
そうです、
自分が変わらない限り、日常の埃は落ちないのでしょう。
旅行は寛容を教える
ディズレリー(イギリスの政治家)
旅は人間を謙譲にします。世の中で人間が占める立場がいかにささやかなものであるかを、つくづく悟らされるからです
フローベル(フランスの作家)
本当の旅の発見は新しい風景を見ることではなく、新しい目を持つことです
プルースト(フランスの作家)
旅をすることは、他国に対する間違った認識に気づくことである。
オルダス ハクスリー(イギリスの作家)
「たび」は自分を変えるきっかけをあたえてくれます。
でも、そのためには、
全精神を今、目の前にあるものに集中することです。
「たび」先での生活を自分の基準で測るのではなく、
「たび」先での生活基準に自分を合わせるのです。
インドの旅行は人間を2つに分けます。
インド病に陥る人と、インド嫌いになる人
おそらく、
インドでも自分の基準で物事を見、判断する人は
インド嫌いになるのでしょう。それほど価値観が違うのです。
でも、インドの基準に自分を合わせる人は、
恐らくインド病になるのだと思います。
同じ日本の中でも、
沖縄は、インドと同じかも知れません。
沖縄病になる人と、沖縄嫌いになる人
自分を変えるきっかけが「たび」には確実にあります。
でも変えるのが目的なら、今の生活と180度違う「たび」を計画した方が
自分を変えるきっかけに最適かも知れません。
時間のスケジュールを立てず、
現地で考え、現地を味わう、
そこにあるものを正しく観察すし
「たび」のすべてを受け入れる
それが、「たび」から得られる再大の恩恵だと私は思います。
人生にはたった二つの生き方があるだけだ。一つは奇跡などないかのような生き方、もう一つは、まるですべてが奇跡で あるような生き方だ
アインシュタイン
「たび」先での経験すべてが、奇跡であるような「たび」
まずい食堂に入っても、なぜこんな食堂が未だつぶれずにいるのか
を考察するだけでも、「ビジネスチャンス」かも知れません。
船が難破し、ある島に辿り着いた靴メーカーの2人のサラリーマン。
現地の人々が裸足なので、一人が
これでは靴が売れないとがっかりした一方、
もう一人の人は、これはビジネスチャンスと、
靴の売り込みに専念・・・
同じ事象を、どう捉えるかで、事態は大きく変わります。
同じ「たび」でも、そこから、
奇跡のように多くのものを吸収するか、
それとも奇跡などないかのように、「たび」を漫然と実行するか、
結局その人によるのかも知れませんね。
前にもあげました、パスカルのことば
人間の不幸の唯一の原因は、自分の部屋で静かに過ごすすべを知らないところにある。
日常生活の中に、奇跡を発見する力が、
「たび」先での奇跡を発見する力につながるのかも。
日常生活で「ぼやきっぱなし」の人は、
たとえ理想的な「たび」に出会っても、
きっと「ぼやいている」のかもしれませんね。
世界は一冊の本にして、旅せざる人々は本を1ページしか読まざるなり
アウグスティヌス(キリスト教父哲学者)
しかし、「ぼやいていても」、
やはり「たび」はすべきものだと思います。
効果はすぐには表れないかも知れませんが、
心の中に「種」として、
何らかの形でくすぶっていると思います。
生涯でその種が芽を出すか出さないかは、
それ以降の出会いなど
ある意味、宿命的なものなのでしょう。
「たび」は何も、お金をかけて出かける必要はありません。
書物を通して、時間を超えた「たび」もあると思います。
過去の偉人たちの言葉に耳を傾け、
自分の心の中に、
さまざまな「種」をまいておく。
どの「種」が将来、芽が出て大輪の花を咲かせるかはわかりません。
しかし、まいた「種」の種類の多さが、
大輪の花を咲かせる可能性を広げるのは考えなくてもわかること、
子どもたちの可能性を広げるためにも、読書を勧めたいですね。
お金を使った「たび」も良いですが、
お金を使わなくても「たび」はできるもの、
大晦日の大掃除のように、一気にきれいに片づける「たび」も良し、
日頃から埃をためないようこまめに片づける「読書」も良し、
時間と空間を超え、
「たび」に出ましょう。
人間の幅を広げるものは三つある。人と会うこと、本を読むこと。旅をすることだ。
午堂登紀雄(不動産投資コンサルタント)
門CAFEは、人に会うこと、本を読むことを実践しています。
いずれ、門CAFEツアーでもやりますか。
人間の幅を広げるために・・・(笑)
Posted by ソクラテス at 15:19
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