2012年02月22日

サルトルの自由

カントの自由は、

自分の行動を自分で決定できる自由

でした。

他人に振り回されることなく、

自然法則にも振り回されず、

自分で、自分の行動を決定する自由

「自然法則」を「欲望」に置き換えると、

カントの偉大さが解りますね。

カントは、「欲望に振り回されないカント的自由」

を実践した人なのですから。

さて、サルトルはどうでしょう。

カントと同様、

自分で自分の行動を決定する・・・

という点では同じなのですが、

シマコさんが「選択の自由」で書いてあるように、

「自然法則」「道徳法則」「他人の命令」

などとは関係なく、

人生あらゆる場面、あらゆる瞬間瞬間で求められる、

「言動選択の自由」を問題にします。

サルトルの思想については

このブログのカテゴリー「いま・ここ・自分」

に書いてありますので参考にしてください。

ここでは、「選択の自由」だけをテーマします。

2012年2月21日(火)琉球新報【金口木舌】に

「フードファディズム」についての記事がありました。

マスコミで「○○に効く」と報道された食べ物が、

翌日には品切れになる現象です。

   「ヨーグルト」「トマトジュース」

   過去には「バナナ」「納豆」

   沖縄でも「シークァーサー」が

   「生活習慣病の予防に良い」とされ、

   全国から注文が殺到!

   北部の農家では、果実の盗難が相次いだとのこと。

みなさんは、振り回されていませんか・・・・?

報道する側も当然「自由」です。

専門家のどの言葉を選択し、どの言葉をカットするか

番組制作中の被験者の

どのデーターを採用し、どのデーターを捨てるか・・・

見る側も当然「自由」です。

番組を「見るか」「見ないか」に始まり、

「信じるか」「信じないか」

そして、「信じて買うか」「信じても買わないか」・・・・

日常生活のあらゆるところで、

選択の自由が存在しているわけです。

というよりも、現代のような情報が氾濫している社会の中では、

「どれかを選択することを、強制させられている・・・」

と言えるかもしれません。

そして、サルトルは言います。

「選択したからには、結果に対しては、自分で責任を終え!」

サルトルの「選択の自由」は「結果責任」を伴うものなのです。

上記の「報道する側」は、

「結果責任」を意識して報道しているのでしょうか・・・・?

また、「報道を見る側」は、

「結果責任」を意識して行動しているのでしょうか・・・・?

特に震災後の「原発」に関しての報道は、

私からすると「無責任」だと思うのですが・・・・?

さて、サルトルはここから、さらに重くなります。

  「無責任」な報道をする、「政治家」を

  選択したのはあなたたち日本人でしょ!

  結果には責任を負いなさいよ!

  そのために、「行動する」「しない」という選択も

  あなたには残されているんですよ・・・!

と!

結局、社会の中で生活する私たちにとっての、

究極の選択は「どういう社会を作るか・・・!」

まで視野に入れなければならなくなります。

それが、サルトルのいう「社会参加【アンガージュマン】」

です。

マスコミを使うのがうまかった「ヒトラー」政権、

ドイツ国民の自由な選択によって作られた「全体主義」

サルトルのいう、「選択の自由」は、

ドイツ国民の自覚を促そうとしていたのかもしれません。

「バナナが良い」という報道に、

「自由に選択」して反応する国民性のこの日本、

政権の中に「ヒトラー」が登場しないことを祈りますね。


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Posted by ソクラテス at 11:21 │自由