2012年03月22日

ベンサムとミルの幸福論

ベンサムとミルは、正義のところでも登場しました。

功利主義哲学者です。

まずは、ベンサムです。

ベンサムの基本的な人間観が、

「人間は苦痛を避け、快楽を求める存在」です。

そこで、快楽を最大にし、

苦痛を最小にしていくことにより、

幸福な社会づくりが達成できる。

苦痛を最小にする方法として、

物理的制裁・政治的制裁・道徳的制裁・宗教的制裁

という4つの制裁をあげています。

(詳しいことは「功利主義の正義」を参照)

今回は快楽計算を説明します。

快楽計算の基準として、ベンサムは7つの基準を設けます。

「強さ・持続性・確実性・遠近性・多産性・純粋性・範囲」です。

たとえば、持続性では、

「カラオケ歌ってたのしかったー」という幸福感と、

「大学受かったー」という幸福感では、

持続性に違いがありますよね。

20年後、自分の子供に語れるという意味では、

前者の「カラオケ」に関しては、忘れているはずですよね。

「カラオケに行って楽しかった」けど「大学落ちた」

という幸福よりも、

「カラオケ行かなくてつまんない」けど「大学受かった」

という幸福の方が、

ベンサム的には、幸福感が大きいので

より「幸福」というふうになるわけです。

もちろん、

「カラオケ行ったけど、大学も受かった」

の方が、より「幸福」ということになります。

したがって、ベンサムの幸福感は、

すべてのことにチャレンジし、

すべてのものを手に入れることができる、

「成功者」の幸福感ということになります。

すべてのものを手に入れることができない人間にとっては、

いずれがよりよい快楽かを、選択していかなければならないわけですね。

選択を間違えると、不幸になるんですね。

それに対して、ミルの場合は、

快楽(幸福)の質に注目します。

ミルは、ベンサム同様

「人間は苦痛を避け、快楽を求める存在」

と定義するのですが、

「快楽には質的な差がある」というんですね。

まず、「肉体的な快楽」と「精神的な快楽」です。

当然、ミルは「精神的な快楽」を重視します。

さらに、「精神的な快楽」を二つに分けます。

「下品な精神的快楽」と「高尚な快楽」です。

カジノやパチンコなどで得られる快楽が

「下品な快楽」です。

「高尚な快楽」とは、

学問・思想などの「精神活動」や

音楽・美術などの「芸術活動」をいいます。

前に述べた、「カラオケ」と「大学受験」でいえば、

「カラオケ」は「下品な快楽」で、

「大学受験」が「高尚な快楽」なので、

ミルからすれば、

「カラオケ」よりは「大学受験」であり、

そこには選択の余地はありません。

そこで、ミルは

「満足した豚より、不満足な人間が良い」

といいます。

「満足した豚」が「肉体的快楽」が充実している状態ですね。

それよりは、不満足でもいいから、

精神活動ができる人間の方が良い・・・と言います。

さらに続けて、

「満足した愚者より、不満足なソクラテスの方が良い」

と言います。

「テレビゲーム・コンピューターゲーム」などで満足している人間より、

不満足でもいいから、「精神的・芸術的活動」をしている人間の方が良い

というわけです。

したがって、ミルにとっての幸福感は

この「不満足なソクラテス」として生きることなんですね。

ミルは幸福について、以下のように述べています。

   「幸福を求めるのではなく、幸福以外のものを求めている時
   幸福はそこにある」

幸福を求めると、どうしても手に入れやすい快楽、

「肉体的快楽・下品な精神的快楽」に向かってしまいます。

そこで、「高尚な精神的快楽」

たとえば、大学受験・社会貢献・NPO活動など、

なんらかの目標を持って活動している時、

本人は気付かないかもしれませんが、

幸福はそこにあるというんですね。

そういう人は、周りからみると「幸せそう」となるわけです。

また、本人も後から振り返って、

「あの時は幸せだったな」となるわけですね。

「幸福」に囲まれていても、

本人は気づかないもの、

それが、ミル的幸福感なのです。



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Posted by ソクラテス at 09:36 │幸福