2012年03月22日

マズローとフランクル

さて、今回は心理学者の登場です。

これは、高校倫理で扱う内容というよりは、

高校現代社会という科目の中で扱う内容です。

現代社会という科目の中に、

青年期という単元があり、

その中で扱います。

前回のミルのところで、

幸福以外のものを求めている時、幸福はそこにある

という言葉を紹介しましたが、

ここから、「幸福な人生」とは、「生きがいのある人生」

と同じ意味になるのかな・・・と思い、

勝手に、マズロー・フランクルを「幸福論」に登場させました。

まずは、マズロー

マズローは人間の欲求を6つに分けます。

基本的欲求である「生理的欲求」

欠乏欲求である「安全の欲求」「所属と愛の欲求」「承認の欲求」

そして、成長欲求である「自己実現の欲求」

最後に「自己超越の欲求」

基本的欲求や、欠乏欲求に関しては、

子育て論や、教育論などでよく登場します。

今回は「幸福」ですので、

成長欲求である「自己実現の欲求」

について、少し触れたいと思います。

一般的な幸福論では、

基本的欲求や欠乏欲求が満たされている時、

「幸福」となると思います。

たとえば、愛されている時・・・とか、

人に頼られている時(所属の欲求)・・・などです。

しかし、マズローにすれば、

それらは、満たされないと欠乏感を感じ、

満たされたらすぐに、上を目指し、

また、欠乏感を感じるんですね。

つまり、エンドレスに欠乏感を感じることになります。

そこで登場するのが「自己実現の欲求」

これは、自己実現という目標に向かって、

生きていくことです。

ミルの言う、

幸福以外のものを求めている状態です。

したがって、ミルの幸福観に近いのかなと思います。

マズローは、さらに、目標を遠くに置きます。

それが、「自己超越の欲求」です。

「自己実現」して、さらにその向こうを目指す「自己超越」

このような、「自己実現」「自己超越」という目標に向かって生きる状態、

これが生きがいのある人生であり、「幸福」なのです。

これに対し、

この、「自己実現」という目標を奪われたらどうなるのか・・・

というテーマを持ったのがフランクルです。

フランクルは、第二次世界大戦の中、

ドイツのアウシュビッツ捕虜収容所に入れられた体験を持っています。

収容所に収容され、

自己実現どころか、いつ殺されるかも解らない、

そのような極限状態でも、生き続ける

そのエネルギーはどこからくるのか・・・

収容所体験を通して、それらを考えたのがフランクルです。

フランクルにとって、人間として重要なことは、

快楽を追求することでもなく、苦痛を軽減することでもない、

「人生の意味を見出すこと」である考えます。

その前提条件が、

「そのれぞれの人間の人生には独自の意味が存在する」

その意味を見出すことが、苦しみに耐える力を与えるというんですね。

幼くして、病死してしまったわが子を前に、

この子の短い人生の意味、

そしてそのような体験を強制させられた自分の人生の意味

その意味を見出した時

幼い子を失ったという苦しみから救われる・・・ということになります。

病気・戦争・天災など、不条理な人生を強いられた人間にとって、

この人生の意味を見つけるか見つけないかで、

生き方は変わってくると思います。

そして、人生の意味を見つけた人は、

どんな過酷な状況の中でも、

「生きていることそのもの」に「幸福」を感じるのかもしれません。

昨年東北大震災後、被災者に生きる勇気を与えた曲の一つ

アンパンマンのマーチ

  そうだ うれしいんだ 生きる よろこび
  たとえ 胸の傷がいたんでも
  なんのために生まれて 何をして生きるのか
  答えられないなんて そんなのはいやだ
  今を生きることで 熱いこころ 燃える・・・・

地震・津波という大災害の中、

生きる意味を失っていた被災者に、

生きる意味を取り返させるきっかけになったのだろうと思います。

順風満帆の人生の時は、

マズロー的「自己実現・自己超越」という生き方が

そして、

不条理な人生に陥った時は、

フランクル的「人生の意味の追求」

これが、苦痛に打ち勝ち、

自分の人生を「幸福」に向けるための

キーワードなのかもしれません。



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Posted by ソクラテス at 12:22 │幸福