2012年06月22日

絶望と希望

これまで「希望」というテーマで

西洋思想を見てみました。

といっても、思想家ではキルケゴールだけですが・・・

東洋思想でも「希望」を思想の対象にしたものは見つかりません。

というよりも、仏教の世界では「希望」そのものが、

人間の執着の一つとして、苦の原因と見なされているのですから、

「希望」を持たない生き方を求めるのです。

日本思想においても、

仏教の影響を受けた「無常観」が中心ですので、

「希望」自体が思想の中にはないようです。


そこで今回は、「希望」について、

様々な視点から、私なりの考えをまとめてみたいと思います。

まずはいつものように、定義から見てみましょう。

将来が約束されている状態を

「望みが有る」と書いて「有望」といいます。

特にこれは若い人たちを形容する場合に使います。

「将来、有望な青年・・・」などですね。

将来の望みが少なくなった時、

「まれ(希)な望み」と書いて、これが「希望」です。

これは西洋の希望(Hope)とは若干ニュアンスが違うようです。

実現するかしないかわからない、かすかな望みのことを「希望」と言うのです。

将来有望な青年に、「夢を持て・目標を持て」とは言いますが、

「希望を持て・・・」とはあまり言わないような気がします。

そして、望みが失われた時「失望」します。

さらに、望みが完全に断たれた時「絶望」と言います。

本来なら、あることに「希望」を持ち、挫折し「失望」する。

しかし、別のことに「希望」を見出し、挫折し「失望」する。

それを繰り返していくうちに、ついには「希望」すら持ちえない状況になる。

これが「絶望」であり、

「絶望」の中では「希望」すら存在しないはずなのです。

それにも関わらず、「絶望」の中でも「希望」が見出せるのはなぜでしょう。

それは、「絶望」という言葉が、

(ある)望みが断たれた状態という意味で

使用されているからなのでしょう。

望み全体ではなく、

望み全体の中のある一部分の望み

それが断たれた時に、「絶望」いう言葉を使っているのだと思います。

すべての望みが断たれた状態では、論理的に「希望」はあり得ません。


例えば、

両親・兄弟そして従兄弟まで、すべてが東大出身という家系の中で、

自分だけが東大受験に失敗した場合、絶望的になると思います。

それが、沖縄という環境に来たら、

東大に受験した・・・というだけでも、

「えらいねーあんたは、」と言われるでしょう。

沖縄では、絶望的な状態ではなく、

むしろ「有望な青年」として、

「来年も頑張ってよ・・・」となるはずです。


年収1000万円だった人が、500万円になった時、

恐らく絶望するかもしれません。

将来プロ野球選手として有望視された選手が、

怪我で野球生命が絶たれた時、

きっと「絶望」するでしょう。

実は、絶望とは、

ある価値観の中で、(ある)望みが断たれた時に使われる言葉なのです。

その意味で、「絶望」から立ち直ることができると言うのは、

それは、ある「価値観」から違う「価値観」への転換を意味しているのです。

「希望」とは、新しい価値観の発見でもあるのです。

死という「絶望」に直面した時、

もし、死をも乗り越えるような価値観の発見があれば、

それが「希望」となるのです。

だから、「絶望」の中に「希望」があるのです。


「東大受験に失敗したから人生は終わり・・・!」

という価値観から、

例えば、

「この失敗から学び、失敗学を打ち立てよう・・・!」

という価値観への転換の可能性(これが「希望」)が生まれるのです。

東大を合格した時には、全く考えもしない価値観です。


実はこの価値観の転換という時、

「希望」の持つ怖さも秘めています。

「希望」の前提である「絶望」

この「絶望」を生み出した原因を探り、

それを排除する方向へ「希望」を導いた時、

人間は、正義の名の下、不正義を犯してしまいます。


資本家を排除しようとした共産革命思想、

アメリカやイギリスを排除しようとした第二次大戦のドイツ

オウム真理教も、信者以外の人間の生き方そのものが

排除すべき対象(彼らの言葉ではポア)だと思ったのかもしれません。

また、いかがわしい宗教勧誘なども、

絶望的な前提を示し、不安をあおります。

その上で、「希望」を示すという手法は、

「希望」の押し売りとして、要注意です。


現在の価値観に「絶望」し、

新しい価値観に「希望」を見出す時、

一歩間違えば、さらなる悲劇が待ち受けているかもしれません。


絶望の淵にある人々を、

又は、絶望の淵に追い込んだ人々を、

生き生きと結束させる有効な手段、

それは、

絶望の原因になる共通の敵を作り、

一致団結して、共通の敵を倒すよう仕向けることです。

これらはすべて「希望」の負の一面だと思います。


正しい「希望」の持ち方は

まず、敵を作らないことだと思います。

「金持ちになる」「大学に行く」などの「希望」は

特に敵を意識しませんが、

「今の不況を作った人々を糾弾する」などの「希望」の持ち方は、

敵を作る「希望」の持ち方になるのです。


何かで読んだのですが「ローカルアイデンティティ」というのがありました。

「故郷を元気にする」・・・という発想です。

この発想には敵はいませんが、

「自分たちの故郷が一番」・・・という発想は、

故郷以外を敵に回すことになります。

この場合、一歩間違えば「ナショナリズム」となり、

紛争の原因になってしまいます。

日本の全都道府県が「故郷を元気にする」

という「ローカルアイデンティティ」を掲げ、

故郷復興に力を入れれば、日本の将来ももっと、明るくなるかもしれません。

「元気の源は子供です」

日本の政策として、少子化対策をするのではなく、

日本の全都道府県が、自らの故郷を元気にするために、

少子化をどうすればよいか知恵を出し合うことが、

「ローカルアイデンティティ」に込められた日本復興の「希望」かもしれません。


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Posted by ソクラテス at 21:30 │希望