2012年06月22日

希望と幸福

今回は、「希望」と「幸福」を比較してみましょう。

「幸福」とは精神的に満たされている状態をさします。

「大学合格」「結婚」「出産」など、

「幸福」な状態というのは、

心が満たされている状態であり、

この状態が永遠に続くことを求めます。

「幸福」な人に

「あなたの希望は何ですか・・・?」などと、

あまり聞きませんよね。

「幸福」な人に将来展望を尋ねるとしたら、

「これからの目標は何ですか?」とか

「あなたの夢は何ですか?」など、

「目標」や「夢」という言葉を使うのが一般的だと思います。

それに対して、「希望」は、

現実に満たされていない状態で使われることが多いようです。

震災の被害者、失業者、紛争地域で生きる人々など、

現実に満たされていない人々が抱くもの、

それが「希望」なのかもしれません。

逆に、現実に満たされず「不幸」な状態にある人でも、

「希望」を持って活動している人は、

生き生きしていて、「幸福」そうに見えます。

「絶望」のどん底、「不幸」の真っただ中で、

「幸福感」を得るために「希望」があるのかもしれませんね。


「絶望」の中で「希望」を見出すのは、

新たな価値観との出会い、と前回書きましたが、

この新たな価値観というのは、

幸福のレベルにも関わってくると思います。


新たな価値観というのは、

まず、横方向への変化があります。

大学受験という価値観から留学という価値観へ、

仕事という価値観から、NPO活動という価値観へなど、

横方向へ価値観をスライドさせるのです。

そこで新たな「希望」を見出し、活動的になるのです。


それに対し、下方向への変化というのもあります。

それが「幸福」のレベルに関わる価値観の変化です。

年収1000万円で幸福感を感じていたのが、

年収300万円に減った時、

「絶望」するでしょう。

しかし、収入は減ったけど、

自分の自由な時間が増えたから良いか・・・

と考えることができるようになると、

そこに新たな「希望」が見出せます。

さらに、

収入など関係ない、生きてさえいれば・・・など、

幸福のレベルを下げることにより、

いかなる状況にあっても挫折することなく、

新たな「希望」を抱き、生き生きと活動的になるのです。

「絶望感」を味わうことも少なくなります。


実は仏教では「希望」を求めません。

仏教ではこの「幸福」のレベルをどんどん下げていくのです。

禅宗では「お茶」一杯をありがたく頂戴する。

この「お茶」一杯が頂けるだけでも「幸せ」と感じる、

これが禅宗の生き方です。

幸福のレベルを徹底的に下げます。

だから、「希望」は持たなくても済むのです。

どんな状況でも、心は満たされているのですから。

また、そのような心の在り方を目指して、

日々修行しているのですから、

「希望」というものは仏教には必要ないんですね。


ここ沖縄県では、6月23日は「慰霊の日」

沖縄戦終結の日です。

平和祈念公園では、慰霊祭が行われます。

毎年、戦争で犠牲になった多くの御霊を鎮め、

平和への祈りを捧げます。

現状では「世界平和」は「希望」でしかないでしょう。

多くの国が「自国の平和と安全」を求めるのですから。

「自国の平和と安全」は敵を作ります。

「自国の平和と安全」を「希望」する限り、

「世界平和」はあり得ません。

「平和の礎」は世界平和の象徴です。

刻銘された名前に、国籍は関係ありません。

敵も味方も、ありません。

「平和の礎」の前に、敵はいません。

すべて、1人の人間として、

銃を向けた人も、銃を向けられた人も、

戦争犠牲者なのです。


平和運動、平和活動も、敵を作っているうちは、

紛争は収まりません。

結局そこには平和は訪れないのです。

平成24年6月23日現在、

「平和の礎」刻銘者数 24万1167名

沖縄戦で、これだけの人の命が奪われたのです。

その事実を伝え続け、

世界平和を「希望」することが大切だと思います。

そして、その「世界平和」のあり方のレベルを下げるのです。

世界中の人々が、

命の不安がなく、

毎日の一杯のお茶を楽しむことができる、

そんな社会をまず目指すことが、

「世界平和」達成の第一歩になるのではないでしょうか。


沖縄戦、犠牲者の方々に、合掌


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Posted by ソクラテス at 21:34 │希望